これは卒業する時の論文です。
概要なので、要点しかありません。
本文は110枚位です。
タイトル「現代美術における素材としての写真」
東京工芸大学大学院修士課程 芸術学研究科 メディアアート専攻 芸術学領域
0071001 古賀
「イメージは、場面やフレームの中だけにとどまらない存在である。」
(ジャン・ボードリヤール著「消滅の技法」より)

[はじめに]

 今回の論文テーマに興味を持ったのは、ロンドンのホワイトチャペルアートギャラリーでローズマリー・トロッケル(Rosemarie Trockel)の「Living Means Knitting Tights(1998)」という作品を見たのがきっかけであると思う。作品の中に写真と写真以外のモノが混在しているところに魅力を感じたのである。
 様々なマテリアルが取り入れられている現代美術の中で、写真というメディアの果たす役割は大きく、欠かすことの出来ないものである。本論文では、コンセプチュアル・アート(概念芸術)以降の現代美術作品を具体的に提示し、写真の用いられ方がどのように変化したのかを比較しながら記すことにした。
 しかし近年ではカテゴリーの境界線を曖昧にするような作品が多く見られる。写真は美術以外に独立した専門の領域を有しているので、「非美術的写真作品」と「美術的写真作品」との違いを見極めることは非常に難しい。そのため、この論文で取り上げる作品は、写真に何らかの加工がしてあるもの、又は写真以外のメディア(マテリアル)と併置されているもの、写真が全体ではなく一部として用いられているもの、複数の写真が意図的に配置されているものなどに限定した。

[コンセプチュアル・アート以前の写真を用いた作品]

 オスカー・ギュスターブ・レイランダー(Oscar Gustave Rejlander 1813-1875)が1857年にマンチェスター美術博覧会で発表した「人生二つの道」という作品をはじめ、1960年代にはじまるコンセプチュアル・アートまでの"写真と絵画の関係"についての歴史を述べ、写真が美術に取り入れられるようになった経過をみていく。ここでポップアートについても触れるが、ポップアートは複製可能なメディアの「反復性」を好んでいたのであり、特に写真に固執していたわけではないとみなした。

[コンセプチュアル・アートにおける写真を用いた作品]

 概念が重要視されたコンセプチュアル・アートにおいて、写真を用いた作品が多く見られるようになる。ジョーゼフ・コスース(Joseph kosuth 1945-)、ヤン・ディベッツ(Jan Dibetts 1941-)、エレナ・アルメイダ(Helena Almeida 1934-)、ビクター・バーギン(Victor Burgin 1941-)、ハンナ・ウィルキ(Hannah Wilke 1940-1993)という5人の作品を例に、コンセプチュアル・アートにおいて写真がどのように用いられたのかを年代順に追う。

[コンセプチュアル・アート以降の写真を用いた作品]

 コンセプチュアル・アートも現代美術に含まれるはずだが、今回はその後どのように写真の用いられ方が変わったのかを述べるため、コンセプチュアル・アートとそれ以降のコンテンポラリー・アート(現代美術)を分けて考えることにした。現代美術の中でもダグアンドマイクスターン(Dug and Mike Starn 1961-)、鶴飼紳祐、石原友明、永原ゆり、中川政昭、ケン・ラムの作品を取り上げ、コンセプチュアル・アート以降の作品において写真の用いられ方がどのように変化したのかを検討する。

[まとめ]

 コンセプチュアル・アートにおいては写真の持つ「写実性」や「記録性」という性質が重宝されていたのに対して、近年の作品はそうした従来の写真の特性から抜け出しているものが多いことがわかった。それは作品が「平面」から「立体」へ移行していることからもわかる。アーティストたちは紙以外の支持体を自らの手で作り出している。写真は印画紙やフレームを超えて、新しい表現を試みている。それは、アーティストたちが具現化、作品化しようとしているイメージ自体が三次元的であるからとも考えられる。技術や手法が開発されていくことで、イメージはアーティストの心に描かれている状態に近づいていく。しかし近年の作品は完全な立体とはいえない。何故なら紙ではない支持体は平面ではなく立体的であるかもしれないが、「平面」という言葉の「面」という部分を残しているからである。つまり像自体は平面を抜け出していないのである。福田匡伸が空間フォトグラフィーということを試み、エンゼルヘアーという綿に像を露光しているが、これもまた正面(一定の視点)から鑑賞しなければ像が定まらないという作品である。
 また複製可能であるはずの写真メディアを使用しながらも、手を加えたことにより複製不可能な作品へと生まれ変わっているということからも、写真の性質を取り去っていることがわかる。その上作品は「写実的」なものから「抽象的」なものに移行している。つまり「記録性」「写実性」「平面性」「反復性」などが廃され、「抽象性」「立体性」「一回性」が見られるようになってきたのである。アーティストたちは新しい手法や試みを次々と展開させているが、こうした傾向は写真が絵画に近づきつつあることを示している。特に近年はコンピュータによる加工が多く見られ、手を加えればアートになるということになりかねない。どのように写真を用いるかというところに作り手の個性が現れるのであり、そこに強く作り手の意思が反映されるのである。

[おわりに]

 今回の論文では、なるべく毎回作品に写真を用いているアーティストを取り上げたため、各人それぞれ写真についての知識を有した方々となった。しかし教育機関で写真を学んだ者もあれば、独学の者、美術の方面から接触する者もあり、一概に写真家とも美術家とも呼べない。写真は様々な方面から手を伸ばすことが可能であり、また多くの人々が用いたくなるような魅力を携えているのだということが感じられた。
 最後に指導してくださった先生方をはじめ、カタログを提供していただいた滋賀県立近代美術館の桑山氏、貴重なお話を聞かせてくださった鶴飼紳祐氏、他、この論文に協力してくださった皆様に深く感謝致します。本当にありがとうございました。


    
 




 
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